大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2018年1月26日)

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2018年1月26日)
―― 懺悔と謝罪の大切さ ――

あらゆる賞賛は、アッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

何かに従おうとするならば、至高のアッラーに従うがよろしい。そのことに関してアッラーは、クルアーン・集合章において述べておられる。
「お前たち信仰する者よ、アッラーを畏れなさい。明日のために何をしたか、それぞれ考えなさい。そして、アッラーを畏れなさい。誠、アッラーは、お前たちの行うことを良く御存知であられる。」(59章 18節)
現世での日々は、短く、一時のものであり、決して永続性のあるものではない。現世とは、来世の為に自分を準備する場所であるに過ぎない。我々の中の最も幸運な者は、良い準備をし、汚れのない新雪のようになって主の栄光を求めて会いに行く者である。アッラーは、クルアーン・夜の旅章において述べておられる。
「しかし、誰でも来世を望み、それに向かって精を出し努力し信仰する者、これらの者の努力は、受け入れられる。」(17章 19節)
来世での位階を高める行いとは、常にアッラーに思いを寄せることである。献身的に沢山の善行を積むことである。過ちを犯したとに気付いた時には躊躇せず謝罪を求めることである。至高のアッラーは、クルアーン・イムラーン家章において述べておられる。
「また、本当に醜い行いに手を染めてしまったり、過失を犯した時、アッラーを念じてその罪の御赦しを請い、『アッラーの外に、誰が罪を赦すことが出来ましょう。』(と祈る者)。また、犯したことを、故意に繰り返さない者。」(3章 135節)
そのことについて、預言者さまSAWは、「アッラーなくして、懺悔し、赦しを請うべき対象は存在しない。それ故、アッラーは、警告する者、良い知らせをもたらす者(即ち諸預言者)を遣わされた。」と言われた。

信者たちよ、使徒たちや預言者たちが、アッラーに懺悔することで御赦しを願っていることが、クルアーンで語られているので、取り上げてみようではないか。使徒たちや預言者たちは、最も高い位階にあるとはいえ、赦しを請うという本性を持ち合わせていたということである。アーダムとその妻ハッワー(平安を)は、アッラーに御赦しを求め、そして、最も叶えて欲しいことを願った。彼らの願いは、クルアーン・高壁章に見い出される。
「彼ら両人は言った。『主よ、私たちは間違いを犯しました。もし、あなたさまの御赦しと慈悲を御受け出来ないならば、私たちは、きっと失敗者の仲間になってしまいます。』」(7章 23節)
その結果、アッラーは、彼らの御赦しを請うという願いを受け入れられた。ヌーフ(ノア)(平安を)は、箱舟に乗ろうとせず、山の方へ逃れようとした息子を溺死させてしまい、不満の思いを抱いてしまったのであった。だが、アッラーにたしなめられた彼は、御赦しを願い出るのであった。そのことが、クルアーン・フード章に述べられている。
「・・・『主よ、わたしが知りもしないことについて、あなたさまに請い求めるとしても、御赦しを願います。あなたさまが私を御赦しになり、慈悲を与えられなければ、私は、失敗者の仲間になるでしょう。』」(11章 47節)
ムーサー(モーゼ)(平安を)が、争いの中で敵方の者を拳で打って殺してしまった時のこと、彼が、過ちを犯したことを、アッラーに御赦しを請うのであるが、それについてクルアーン・物語章に述べられている。
「・・・『主よ、本当に、私は、自ら不義を犯しました。どうか、私を御赦し下さい。』 それで(アッラーは)彼を赦された。誠、アッラーは、寛容にして慈悲深くあられる。」(28章 16節)
次には、ユーヌス(平安を)が腹を立てて飛び出し、船に乗り込んでしまった時のことである。アッラーは彼を戒めて、大魚に飲み込ませ試練を与えたのであるが、彼は、自らの過ちに気づき、アッラーに御赦しを請うのであった。そのことが、クルアーン・預言者章に述べられている。
「・・・『あなたさまの外に神はありません。あなたさまの栄光を讃えます。本当に、私は、不忠な者でした。』と叫んだ。」(21章 87節)
更には、預言者ムハムマドSAWが、多神教徒のクライシュ族の有力者にイスラームを教え、入信に傾いていた時のこと、その教えの最中に起こったことがクルアーン・眉をひそめて章において述べられている。即ち、その盲人である教友が、ムハムマドSAWが大事な教えの最中であることに気づかず、自分への教えを請い割り込んできたのである。ムハムマドSAWは、その盲人に腹を立て眉をひそめたことに対して、アッラーが、ムハムマドSAWをたしなめられたのである。
「(ムハムマドは)眉をひそめ、顔を背けた。」「一人の盲人がやって来(て大事な話をしているのに割り込んで質問し話の腰を折られ)たからである。」「あなた(ムハムマド)に、どうして分ろうか、彼は、(即ち、その盲人は質問の答えによって)清められるかも知れないことが。」「または、彼が(その答えに)留意し、その教えが彼を益することとなったかも知れないことが。」(80章 1–4節)
この啓示が下された後、預言者ムハムマドSAWがこの盲人に出会うと、「ようこそ、我が主が私を咎められた、その元になった方よ。」と挨拶したそうである。

信者たちよ、謝罪というものは、自分と他人とが尊重し合ってこそ生まれる礼儀に適った行為である。その上、謝罪は、思慮ある誰もが欠かすことの出来ない倫理上の行いである。最も賢い人物は、最も許す者でると言われる。預言者さまSAWは、個人個人の間で、謝罪の心を養うようにと勧めておられる。なぜなら、謝罪は、愛、信頼、憐みを育む元となるものだからである。喩えば、預言者さまSAWは、理由もないのに三晩以上も人と疎遠でいることのないようにと警告しておられる。預言者さまSAWは、謝罪する者を褒め称え、その者には、報酬のあることを約束なされた。そして、預言者さまSAWは、「ムスリムは、彼の(信仰の)兄弟と、三晩以上疎遠でいることを禁じられた。また、二人が会った時に、一人がこちらを向き、もう一人があちこちを向いて顔をそむけあうことも禁じられた。二人の内でより良い者とは、最初に挨拶する者の方である。」と述べられた。謝罪を申し出る場合には、良い言葉を選び、丁寧で礼儀正しいことが求められている。
アッラーは、クルアーン・フッスィラ章において述べておられる。
「善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層の善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる。」「だが、よく耐え忍ぶ者たちの外には、それは成し遂げられないであろう。格別幸運な者たちの外には、それを成し遂げられないのである。」(41章 34–35節)
家庭の中で、このような習慣が育まれているならば何と良いことであろうか。家庭内で誰かが過ちを犯したなら、時に夫は妻に、そして他の誰かが誰かに謝罪するのである。家族は、丁重にこれを行い、満たされ、自尊心を回復させるのである。結果として、家族の愛と安定を強めるというものである。両親は子供に対して、謝罪、寛容、愛情深さ、仲直りの手本となるべきである。赦しを求める行為は、勇気ある行為である。親が子に謝罪し、先生が生徒に謝罪し、上司が部下に謝罪することに出会ったならば、人を見下す材料にしてはいけない。むしろ、そうした謝罪行為は、立派な性格と、正直さの顕われなのであるから。

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

アッラーよ、懺悔し、謝罪する者の一人となるように御導き下さい。
アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。
アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。
アッラーよ、預言者ムハムマドSAW に従い、イスラームの教えを守る者にして下さい。
アッラーよ、私たちの信仰心を強くして下さい。私たちの過ちを御赦し下さい。
アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。
アッラーよ、イスラームとムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。
アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン

ホトバ要約.

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