犠牲祭に際して行う犠牲に関する知識(2016年9月9日)

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2016年9月9日)

―― 犠牲祭に際して行う犠牲に関する知識 ――

あらゆる賞賛は、賞賛を受けるに相応しい御方であられるアッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

信者たちよ、主であられるアッラーを畏れなさい。自らが御悦びになる機会を我々に御用意下される為に、家畜を犠牲に捧げなさいと命じられる主に感謝しなさい。この犠牲という行為は、信仰の父イブラーヒーム(平安を)と、預言者ムハムマドSAWの行いに基づくものである。犠牲にする家畜の各部分、一本一本の毛からさえ報酬が得られるものであると、主は約束しておられる。預言者さまSAWは、述べておられる。「犠牲の日に犠牲を捧げる以上に、アッラーの御悦びが得られる行いをし得る者はいない。犠牲の家畜は、終末の日には、角も毛も備わった姿で蘇り、犠牲を捧げた者は、角や毛それぞれをもとにして報酬が与えられるだろう。犠牲にされる家畜の血は、それが地面に達する前には、アッラーによって受け入れられている。それ故、喜んで犠牲を捧げなさい。」

信者たちよ、犠牲の為の支出と犠牲という行為は、支払った金銭以上に奉仕ないし喜捨としての値打ちがある。犠牲を捧げるという行為は、経済的に余裕がある人々にとっては、積極的に行うべきスンナ(奨励される行い)である。そして、自分自身、妻、子、両親らを含む家族のそれぞれの名において支払い行う犠牲は、預言者さまSAWが行われた犠牲をお手本とするものであり、その犠牲に対しては、家族のそれぞれが報酬を受ける。それ故、自分と家族のそれぞれの名において犠牲を捧げるのが好ましい。即ち、自分と両親のだけということなく、家族全員それぞれの名において支払い行う犠牲が望ましいということである。なお、家族が死んで一年以内に、その死んだ家族の名において犠牲を捧げることがあると言われているが、それはイスラームの教えに沿ったものではない。また、犠牲の家畜の顔に、犠牲を捧げる人の印を入れることがあると言うが、預言者さまSAWの教えに従い、犠牲を捧げる人の名を唱えるだけで十分である。更に言えば、犠牲を捧げる人の名を唱えることなく、犠牲であることを唱えれば十分である。

犠牲にする家畜としては、ラクダ、牛、山羊、羊が適合である。いずれの家畜も、十分な年齢、即ち、ラクダな5歳以上、牛は2歳以上、山羊は1歳以上、羊は生後6ヶ月以上であり、犠牲に適合しないような欠陥が無いことが条件である。犠牲にする家畜の年齢についてジャービルは、伝えている 。「アッラーの御使いSAWは、『あなた方は、生後一年以上の家畜以外は屠ってはならぬ。だが、それの入手が困難であり、仕方なしに一年未満のものを犠牲として捧げるしかないならば、雄の子羊を屠るがよい。』と申された。」 また、犠牲に適合しないような欠陥について、預言者さまSAWは、述べておられる。「次の四つの欠陥があるものは犠牲に適さない。明らかに不具であること、明らかに片目であること、病状が表れているもの、皮下脂肪が無いほどに痩せているもの。」 犠牲に適合しない欠陥ではないにしても、片目の視力が無い様子の家畜を犠牲とするのは好ましくない。動き回るのを観察し、皮膚に病状が表れているとか、病弱が見て取れるもの、痩せ衰えてやつれのひどいものは適合しないと判断するのがよいだろう。その一方で、耳が裂けているとか、蹄に欠損があるとか、歯が欠損しているものは差し支えない。去勢されている家畜については、肉付きが良いという点で適合する。また、7人で分け合うラクダや牛よりも、山羊か羊の方が好ましいと言われることがあるが、いずれが優るということはなく適合するものである。例えば、既にいる6人の人々に加えてもらって犠牲のラクダなり牛なりを分かち合った者については、皆と同じに報酬が分かち合われる。ジャービル・ビン・アブドッラーは、語っている 。「私たちは、アッラーの御使いSAWと共にハッジを行なった。私たちはラクダ一頭を七人で、また、雌牛一頭を七人で、それぞれ犠牲として捧げた。」 

犠牲の家畜を屠ることについては、可能ならば自分自身で行うのが望ましい。預言者SAWの妻アーイシャさま(平安を)は伝えている。「アッラーのみ使いは、四肢、腹部、そして目の周囲が黒い雄羊を用意するようお命じになりました。それが犠牲に供されるために連れて来られるとその御方は、『アーシャーよ、包丁を持って来なさい。』と言われた後、『それを砥石でとぎなさい。』と申されました。私は言われたようにしました。御使いSAWは、包丁を手にされると雄羊を掴んで地面に横たえられ、そして、それを屠られました。その後、御使いは、『アッラーの御名において、おおアッラー、(この犠牲を)ムハムマドとムハムマドの一族、そしてムハムマドの共同体のために受け入れて下さい。』と申されました。」 犠牲を捧げる本人が屠るのが困難で誰かに依頼する場合には、立ち会うがよかろう。だが、仮に、立ち会わなくても、犠牲は適法である。次には、自分の家畜だと勘違いし屠ってしまい、後で他人のものを屠ったと気付いた場合には、その犠牲は動物の所有者の犠牲として成立し、犠牲による報酬と肉は、その家畜の所有者が受け取ることとなる。即ち、家畜小屋の中に犠牲用の家畜が何頭もいたとして、誰かが自分のものと思って一頭を選び屠ってしまい、後で自分のものではないと分かったとしたら、犠牲を捧げたそのことは適合であるが、屠った者は犠牲を捧げたことにはならず、犠牲の報酬も得られない。その家畜の持ち主に替わって屠ることを行ったに過ぎないということである。

アッラーは、クルアーン・潤沢章において次のように述べておられる。

「誠、われは、あなた(ムハムマド)にカウサル(潤沢)を授けた。」「さあ、あなたの主に礼拝し、犠牲を捧げなさい。」(108章 1–2節)

カウサル(潤沢)とは、楽園にある川の本流のことであり、豊富、物惜しみしないなどの意味があり、預言者(ムハムマド)に授けられた恩恵、英知、洞察力、精神力他様々な尽きることのないもの、即ち、善や教えのことを意味している。犠牲を捧げることは、そうした教えの中の大切な一つであるから、経済的に余裕のある者は皆、犠牲を捧げようではないか。

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

アッラーよ、惜しみなく犠牲を捧げる者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。

アッラーよ、預言者ムハムマドSAW に従い、イスラームの教えを守る者にして下さい。

アッラーよ、私たちの信仰心を強くして下さい。私たちの過ちを御赦し下さい。

アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。

アッラーよ、イスラームとムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。

アッラーよ、病気の者たちを御治し下さい。仕事の無い者たちに清い仕事を御与え下さい。

アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アミィーン

ホトバ要約.

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